【国際恋愛】外国人と付き合う女って、なんか残念だよね

国際恋愛

トスカーナ地方に住むイタリア人の義父から「庭に咲いたよ!春だね!」と写真が送られてきた。

桜やぁ!と喜んだけど、ただのチェリーとのこと。
綺麗やないかチェリー。そらスピッツも歌うわ。
(正直、背景のレンガ調の家がなかったら、実家の桜と全く区別がつかなかったけど)

普段はクールな義父の「春だね!」のメッセージに、
国が違えど開花シーズンに喜びを感じる感覚は共通なんだなぁと思った。

しかし、日本人は桜をどうも特別扱いし過ぎている気がしてならない。

単純にピンク一色に染まるのが綺麗!という桜のスペックもあるが、一色染めの綺麗さならイチョウだって負けていない。
むしろ葉っぱが大きい分、広い範囲を真っ黄色に染め上げるのに、愛され度は桜の足元にも及ばない。

この圧倒的な差は、“春”に咲くからだと思う。
出会いと別れが重なる季節に咲くことで、思い出に残りやすいという圧倒的なアドバンテージがある。

例外なく、私にとっても桜は思い出の花だ。
ただそれは、ちょっと苦い、痛い、戒めのような思い出なんだけど。


2年前の春だった。
イタリア人の恋人・エマノエルが来日した。
彼は大の桜好きで、わざわざ仕事を調整してまで桜を見たかったらしい。

「サクラはいろんなマンガやアニメに出てくるよ!花びらが舞っているのは、別れることの刹那と、出会いに対する希望のメタファーなんだよね?」とのこと。
お、おう…。そやで…。そこまで考えたことなかったけど、そやで…。

京都を訪れたのは、ちょうど満開のベストタイミング。
エマノエルたっての希望で、着物で京都の街を散策することにした。

「京都市内 着物レンタル カップル」で検索し、山ほど出てくる店情報の中から、ホテルから一番近い着付屋さんを予約した。
彼は藍色の着物にグレーの羽織、私は真っ赤な牡丹が咲いた美しい着物を着せてもらった。

ご満悦のエマノエル。
めちゃくちゃ小さい声で「カッコイイーネ」と言っている。
ジローラモのせいでイタリア人は陽気と思われがちだが、シャイなイタリア人だっているのだ。

こうして、着物カップルは京都の街に桜散策に繰り出した。

(↑抹茶初体験のエマノエル)


桜まつりが催されている二条城に向かうと入場するために長い行列ができている。桜シーズンの京都なんてどこも観光客でごった返しているのだ。さすが京都。

行列に並ぼうとした時、受付のおばちゃんが大きな声で
「ちょっと、そこの着物のお二人!着物の方は並ばずに入れますよ!こっちこっち!」と、並ばずに通してくれた。

しかも入場無料らしい。
“それっぽさ”の一部として風情を盛り上げる着物勢は優遇してもらえるらしい。さすが京都。
ただ、あれだわ。声が大きすぎるよ、おばちゃん。


その声につらえて、行列に並んでいた人々がバッっと一斉に私たちを見た。

ただそれだけなんだけど、私は顔が真っ赤になるくらい恥ずかしかった。

ぶっちゃけると、着物に着替えてからずっと、うっすら恥ずかしかった。

原因は「花見+着物+外国人の彼氏」の“いかにも”な組み合わせだ。
「こいつ、国際恋愛やってんなぁ〜」と思われている気がして、たまらなく恥ずかしいのだ。


意味がわからない方も多いと思うので、丁寧に説明したい。

私は放送作家をしていたこともあり「ツッコミ気質」の人間である。
これはボケとツッコミの意味ではなくて、他人の行動や言動、起こった出来事に対して
「今の何やねん!」「こんな時、◯◯しがちよな」などと感じるアンテナが人よりも少し過敏に反応する。そういう意味のツッコミ気質だ。
こんなタイプはいろんな決めつけを自分の中にこさえている。

例えるなら、「あるある」のネタになるような視点をたくさん持っているのだ。
スマホ画面が割れてる女性はだいたい部屋汚い、みたいな。
仕事も大いに影響してたけど、そもそも人間性がそうなんだと思う。


数多ある決めつけの中に
「外国人と付き合う女はだいたい残念」という決めつけがあった。

実際に外国人と付き合ってる人に会ったこともないのに、
「ルー大柴みたいに英語まじえながら話しちゃうんでしょ?」「黒髪ロングのセンター分けでしょ?」「体のラインが出るピチピチの服着るんでしょ?」と勝手に決めつけていた。

わざわざ言葉に出さないまでも、無意識の”当たり前”だった。もしかしたら、こんな暴力的な決めつけを言葉にして言ったこともあったかもしれない。いや、言ってしまっていただろう…。今思うと本当にろくでもない。

その言葉が、ブーメランとして、すごい刺さっているのだ。
イタリア人の隣で、着物を着ている私に。In 二条城。


「みてあの2人。やっぱり外国人と付き合ってる日本人って残念だよね」
「外国人と着物デートって、浮かれすぎw」
そう思われている気がして、私は楽しそうなエマノエルの隣で、ずっと、早く着物を脱いでしまいたかった。
お昼も人の少なそうな、半個室の和食屋を選んだ。
できるだけ人に見られないように…。

私はいつも人の目を気にして楽しめない。
この“人の目”は、自分の目だ。
自分が今まで他人に向けてきた目なのだ。

「外国人と付き合う女はだいたい残念」「外国人と着物デートとかベタすぎ、浮かれすぎ」
と決めつけて、そういう目で見てきたから、今恥ずかしいのだ。
着物デートは日本人でも浮かれちゃうだろバカ。

残念なのは私の思考のほうだ。
恋人が外国人だろうと日本人であろうと、美人であろうと、ブスであろうと、みんな恋愛で満たされたり、悩んだりするのは同じなわけ。

この日以来、私はできる限り人に対して決めつけないようにしようと誓った。
年齢とか性別とか、属性とか、容姿とか、そんなもので決めつけないようにしよう。
それは呪いになって、未来の自分をも苦しめるかもしれないから。


すごい勢いで時代は変わったし、自分も変わった。

「◯◯な人はだいたい残念」みたいなあるあるで笑ってた自分はもう居ないけど、
桜を見るたびにあの日を思い出しては、また人に自分に呪いをかけちゃってないかを再確認する。

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